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☆京都のお天気:晴陰交 (『嵯峨実愛日記』) >第一次幕長戦へ ■征長総督問題 【京】元治1年9月11日、肥後藩留守居役上田久兵衛は、会津藩公用人手代木直右衛門から、前尾張藩主徳川慶勝の出立・上京が一日早く、14日になったことを知りました。
※上田が前10日に大目付永井尚志から聞き出したところによると、9日、慶勝の使者が、15日に出発を内定した旨を老中稲葉正邦に伝えていました(こちら) <ヒロ> といっても、慶勝はまだ総督を請けたわけではなく、あくまでも上京です。それにしても、禁門の変後の会津藩公用人とと肥後藩(上田久兵衛)の緊密な関係が続いていますね。 参考:元治1年9月11日付藩庁宛(肥後藩留守居役)上田久兵衛書付草稿『幕末京都の政局と朝廷』p25-26(2018/6/3) ■勝海舟と越前藩・薩摩藩、肥後藩 【坂】元治1年9月11日、軍艦奉行勝海舟は、滞坂中の老中阿部正外に再び会い、京都で薩摩藩が長州処分に関する厳しい建議をしたことを聞きました。 その内容は、防長二州については「半国」を朝廷の「御物成」とし、残りの半分は征長諸侯に与えることなどでした。 <ヒロ> 薩摩藩士西郷吉之助(隆盛)は、9月6日付の大久保一蔵(利通)への書簡で、「狡猾」な長州藩が、戦いの結果降伏を願い出れば、わずかな領地を与えて東国へ国替させるべきだとの強硬意見を主張していました(こちら)。その延長上の建議で、引き続き、強硬です。 【坂】元治1年9月11日、薩摩藩士西郷吉之助・吉井幸輔、越前藩士青山小三郎・堤五一郎が軍艦奉行勝海舟を訪ね、将軍上洛の尽力を依頼しました(青山・堤は、越前藩主松平茂昭の勝の意見を問う直書を持参)。 <越前藩の事情> 征長総督が確定しない中、副将・越前藩主松平茂昭は9月6日に着京(こちら)。翌7日に禁裏守衛総督一橋慶喜・老中稲葉正邦を訪ねると、総督確定・将軍上洛を説きました(こちら)。8日、越前藩重臣は、会津藩の働きかけもあり、江戸に使者を送って将軍上洛を建議することを決めましたが(こちら)、その前に慶喜の内意を確認することとし、9日、藩士本多・島田が慶喜を訪ねました。用人黒川嘉兵衛が応対し、建議は「大いに然るべし」と賛同しましたが、同じ日、一橋邸で行き会った永井は将軍進発が近いと話ました(こちら)。そこで、10日、中根が黒川を訪ね、確認したところ、黒川は関東のいうことは信用できないので、将軍上洛建議をすすめるよう促しました(こちら)。 <薩摩藩の事情> 薩摩藩は、当初、禁門の変で大活躍だった慶喜を征長総督にと考えていましたが、関東の事情がそれを許さず、結局、将軍上洛を周旋することとしていました。(吉井は、8月1日に神戸の勝を訪ねて将軍上洛について議し(こちら)、3日に再び勝を訪ね、その周旋のために上京すると述べていました((こちら)。勝はこの頃は将軍上洛論だったようで、4日には将軍上洛周旋のために東帰予定の若年寄稲葉正巳に対し、薩摩藩士を伴うことを進言していました(こちら)。9月に入り、西郷も、近衛忠房の言を入れ、東下する有馬新助・海江田信義に将軍上洛周旋を指示していました(こちら)。一方で、西郷は征長副将である茂昭を総督とする追討も考えていました。副将がいれば何かと建議しやすいからという理由で、茂昭の着京早々に越前藩と連絡をとっていました(こちら)が、越前藩はこの策にはのってきませんでした。 勝は、幕府の内情を明かし、尽力のしようがない、諸藩の尽力も無益だと述べましたが、これから上京する老中阿部正外については称賛しました。
<ヒロ> 勝が語った内情は、前10日に大坂町奉行松平信敏から聞き取ったものだと思われます(こちら)。阿部老中からもきいたかもしれませんが・・・。勝がどのタイミングで将軍上洛に懐疑的になったのか不明ですが、もしかすると、西郷らと勝の面会が数日ずれていたら、勝は将軍上洛周旋に協力しようとしていたかも??? 勝は、さらに、兵庫開港・条約勅許問題に関し、外国人は幕府を軽侮しているので、明賢諸侯4,5名の会盟による国是確立すべきと(「共和政治」)論じ、諸侯出京までは自分が対応し、外国人を引き留めると述べました。
<ヒロ> 勝が論じたらしい、江戸の幕府を無視した有力諸侯中心による外交ていうのは、この春の朝議参与会議が失敗に終わったばかりで、目前に迫る問題の対策としては現実的ではないです(そもそも京都にいる一会桑がそれを容認するとは思えない・・・)。なんだろう・・・大元となっている横井小楠や大久保忠寛の論にはものすごくドキドキわくわくしたのに、勝の意見はうさんくさいというか、放言としか思えない・・・。薩摩中心主義の西郷はこのアイデアにとびついていきますが・・・。 越前藩にとっては、諸侯を京都に集めて閉鎖の議論を決して国是の根本を確立すべきだというのが藩論で、8月にも春嶽が慶喜や在京老中稲葉正邦に書を送って主張していました。勝の主張は、なじみがあるといえばなじみがありますが、(江戸の)幕府を無視するという点で、似て非なるものです。勝の論をきいて、越前藩がどう思ったのか、わからなくて残念です。(ちなみに、将軍上洛周旋に東下中の会津藩公用人野村左兵衛も、9月4日、諸侯会議による開鎖の国是決定が必要だとの認識を京都に書き送っています(こちら) この日、初めて勝に会った西郷は、非常に感銘を受け、勝に「ひどくほれ」たそうです。
<ヒロ> 要するに、勝って、薩摩にとって都合のいいことを言ってくれる人ということなのでは・・・。それにしても、西郷って、好き嫌いがはっきりしています。 参考:『西郷隆盛全集』1p396−402、『勝海舟全集1 幕末日記』p165(2018/6/2) 関連:テーマ別■第一次幕長戦へ(元治1) ※追加 【坂】元治1年9月11日、将軍進発建白の使者として京都・江戸出張途上の肥後藩士長谷川仁右衛門が勝海舟を訪ね、幕府の事情を尋ねました。 勝は、征長について幕府は期待できないと慨嘆し、肥後・薩摩等有志大名4,5名の急速出京・協議を主張しました。
勝は、また、兵庫開港問題について、有志諸侯「連印」による外国との交渉を論じ、諸侯入京までに外国艦が現れた場合は、自分が対応し、交渉をせぬよう引き留めておくと述べました。
勝は、さらに、老中阿部正外を「余程有志」で幕府の中で唯一の「頼」みであると称賛しました。
<ヒロ> なんと、勝は、同じ日に、同じことを肥後藩士に論じていたんですね〜。西郷の手紙でも触れられていますが、老中阿部にひどくほれこんでいます。 諸侯会議については、肥後藩といえば横井小楠だし(士道忘却事件で士席はく奪されていますが)、長谷川は文久3年に諸侯会議が盛り上がっていたころにも京都にいたので(こちら)、彼にとっては新しい議論ではなかったかも。 それから、西郷の手紙からは、勝が征長に対してどういうスタンスなのかよくわからななかったのですが、長谷川の事情書からは、少なくとも否定的ではないことが推し量られますよね。あと、たぶん、征長について諸侯が上京して協議するという話の延長上に、諸侯による兵庫開港の応接がでてきたらしいということも。それにしても、西郷の大久保への手紙には、勝が論じたはずの有志諸侯の急速上京・征長協議が含まれていなかったのですが、なぜなんでしょう?? 肥後藩の京都留守居上田久兵衛は会津藩との協調路線なのですが、長谷川の報告をどう思ったのでしょうか・・・。 参考:「伊達家雑録」『稿本』(綱要DB 9月9日 No15)、「熊本藩庁記録」『稿本』(綱要DB 9月13日 No78)(2018/6/4) ■江戸の内情(幕閣VS会津藩) 【江】元治1年9月11日、大目付が会津藩江戸留守居荒川登を呼出し、京都ら次々派遣されてきた守護職の使者につき、幕閣への面会要請は(上士の)公用人のみが行い、(手続きにのっとり)江戸城で要請するよう達しました。
※江戸滞在中の京都守護職からの使者
<ヒロ> 野村たちは、老中がなかなか会ってくれないので、役宅まで出向いて面会を迫っていたようですが、逆効果だったようです。結果、公用人野村左兵衛が江戸に残り、広沢富次郎・柴秀治は、9日に老中から渡された藩主容保宛の「御書」を持って帰京することになったそうです。 なお、大目付がこのようなことをわざわざ達した背景には次のような事情があったのかもしれません。
参考:「会津藩庁記録」『稿本』(綱要DB)、『京都守護職始末』p111-112、「森井惣四郎聞取書(9月13日条)/肥後藩国事史料」『稿本』(綱要DB 9月11日条 No72) 関連:テーマ別元治1■一橋慶喜の評判/嫌疑 ■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ 【天狗諸生】芳野桜陰ら、幕府軍にとらえられる(綱要) 【江】老中水野忠精、ロッシュに対し、長州藩士の神奈川奉行への引き渡しを要請。ロッシュ、拒否。 |